今回一番すごかったのは、武田トートの「愛と死の輪舞」だ。
今まで2度ほどこのトートで見たけれど、実は一度もこの歌に心動かされたことはなかった。
しかも、私、個人的に「愛と死の輪舞」は、東宝版では必要ないと思っている。
別にこの曲が嫌いなわけではないが、物語の流れの中であまりにも唐突にこの曲のシーンが挿入されて、強引過ぎると思うから。
そんなわけで、あまりこの曲には思い入れがない。
だけど、今回の武田トートの「愛と死の輪舞」はかなり鳥肌が立った。
相変わらず、物語の中に必要ないとは思うけど、このシーンのみでのこの歌はすばらしい出来だったと思う。
まだ耳から離れん!!
これまで2回博多で朝海ひかるさん、武田真治君のとりあわせで「エリザベート」を見たのだけど、今回のバージョンが一番私の思い描く「エリザベート」という物語の形に近かった。
そして、新しく気がついたこともたくさんだ。
エリザベートとフランツは、最初から最後まで結局自分のことしか見えていなかったんだよなあってこと。
2人は一度も相手の立場に立って考えることをしなかった。
ゾフィーのせいで二人の愛が引き裂かれたわけではなく、最初から2人は分かり合っていなかったのだなと、二人が恋に落ちた瞬間と完全に道が分かれるラストのシーンで思った。
だからうまくいくはずはなかったのよね~。
でもまあ、この2人が自分のことしか考えなかったがためにハフスブルグ家は滅んでしまうんだよね。
そういう意味でゾフィーは常に正しいことを言っていたわけだけど、いかんせん彼女もまた自分のことしか考えていなかったので、2人には気持ちが通じなかった。
一番かわいそうなのは、やはりルドルフ。
彼は多分、一番ハフスブルグ家の未来のことを考えていたけれど、その気持ちをテロリストに悪用されちゃった。
でも、これって、現代社会のうまくいかない家族像だよなあ・・・・と帰りの新幹線の中でどよ~んと考えてしまった。
トートは、それぞれの心の中にある滅亡(=死)に対する憧れが具現化した存在じゃないかなと思った。
死の帝王という定義は武田トートを見ている限り当てはまらない気がする。
今回思ったんだけど、トートは誰かに依存したいという気持ちが強い者ほどとらわれやすいんじゃないかな。
ここではないどこか楽になれる場所へ連れて行ってくれる存在はいないだろうか・・・と考えたときに目の前に現れる存在。
たった今の状況から抜け出す一番簡単な方法って何だろう・・・?
それは死ぬことと考えると自然な気がする。
そういうふうに考えると一番死に近かったのは、ルドルフ。
彼には優しく抱きしめてくれる父も母もないも同然、祖母はひたすらきびしかったからそんなことを望む相手ではなかった。
とにかく彼は理解者が欲しかった。慰めて抱きしめてくれる存在が欲しかった。
だからトートは、彼の前に現れるときとても女性的なイメージで現れるのだ。
時に母のように彼をいたわり、別の時には父のように彼を叱咤激励し心を奮い立たせる。
そして最終的に、恋人のように彼に甘い声でささやき・・・・死にいざなう。
テロリストたちは、自分たちを導いてくれる力強い存在を願っていた。
自分たちの行く先には死が待ち受けていることを彼ら自身が自覚していたと思う。
トートは彼らが思うとおりの存在として表れ、そして彼らを死にいざなった。
エリザベートは、誰かに頼りたいと思いながらその気持ちがフランツに伝わらなかったため、自分自分だけを信じて生きるようになる。
そのため、常に死への憧れがありながらも生への強い執着を持つようになる。
トートはあの手この手で彼女を手に入れようとするけれど、うまくいかない。
トートが常に彼女にとっていた態度は、彼女が本当は望んでいる頼りたい存在像なんだと思う。
トートがエリザベートやルドルフにささやきかける時が一番エロティックで扇情的なのは、それが彼らの心のゆれを刺激するからなのだろうな。
甘い言葉で囁いて・・・彼らを手に入れようとする。
あとひとつ。
トートダンサーズは、トートの手下なのではなく、トートの一部だと見るほうが自然な気がする。
ゾフィーの死のとき、トートではなくトートダンサーが現れるのは、彼女が最後まで死に憧れを抱かなかったためではないかなと思う。
逆にエリザベートは口に出さなくとも死を漠然と待ち望んでいたから、ルキーニを引き寄せたといえるんじゃないかな・・・。
な~んて、勝手に帰りの新幹線の中で解釈していたら楽しかった。
2009.1.11(SUN)『エリザベート』昼の部(at 梅田芸術劇場)
「愛と死の輪舞」
WORDS & MUSIC BY MICHAEL KUNZE AND SYLVERSTER LEVAY、Japanese Words BY 小池修一郎、 PLAY BY 武田真治






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